三 - 10
「それにあの迷亭とか、へべれけとか云う奴は、まあ何てえ、頓狂な跳返(はねっかえ)りなんでしょう、伯父の牧山男爵だなんて、あんな顔に男爵の伯父なんざ、有るはずがないと思ったんですもの」「御前がどこの馬の骨だか分らんものの言う事を真(ま)に受けるのも悪い」「悪いって、あんまり人を馬鹿にし過ぎるじゃありませんか」と大変残念そうである。不思議な事には寒月君の事は一言半句(いちごんはんく)も出ない。吾輩の忍んで来る前に評判記はすんだものか、またはすでに落第と事が極(きま)って念頭にないものか、その辺(へん)は懸念(けねん)もあるが仕方がない。しばらく佇(たたず)んでいると廊下を隔てて向うの座敷でベルの音がする。そらあすこにも何か事がある。後(おく)れぬ先に、とその方角へ歩を向ける。
来て見ると女が独(ひと)りで何か大声で話している。その声が鼻子とよく似ているところをもって推(お)すと、これが即ち当家の令嬢寒月君をして未遂入水(みすいじゅすい)をあえてせしめたる代物(しろもの)だろう。惜哉(おしいかな)障子越しで玉の御姿(おんすがた)を拝する事が出来ない。従って顔の真中に大きな鼻を祭り込んでいるか、どうだか受合えない。しかし談話の模様から鼻息の荒いところなどを綜合(そうごう)して考えて見ると、満更(まんざら)人の注意を惹(ひ)かぬ獅鼻(ししばな)とも思われない。女はしきりに喋舌(しゃべ)っているが相手の声が少しも聞えないのは、噂(うわさ)にきく電話というものであろう。「御前は大和(やまと)かい。明日(あした)ね、行くんだからね、鶉(うずら)の三を取っておいておくれ、いいかえ――分ったかい――なに分らない?おやいやだ。鶉の三を取るんだよ。――なんだって、――取れない?取れないはずはない、とるんだよ――へへへへへ御冗談(ごじょうだん)をだって――何が御冗談なんだよ――いやに人をおひゃらかすよ。全体御前は誰だい。長吉(ちょうきち)だ?長吉なんぞじゃ訳が分らない。お神さんに電話口へ出ろって御云いな――なに?私(わたく)しで何でも弁じます?――お前は失敬だよ。妾(あた)しを誰だか知ってるのかい。金田だよ。――へへへへへ善く存じておりますだって。ほんとに馬鹿だよこの人あ。――金田だってえばさ。――なに?――毎度御贔屓(ごひいき)にあずかりましてありがとうございます?――何がありがたいんだね。御礼なんか聞きたかあないやね――おやまた笑ってるよ。お前はよっぽど愚物(ぐぶつ)だね。――仰せの通りだって?――あんまり人を馬鹿にすると電話を切ってしまうよ。いいのかい。困らないのかよ――黙ってちゃ分らないじゃないか、何とか御云いなさいな」電話は長吉の方から切ったものか何の返事もないらしい。令嬢は癇癪(かんしゃく)を起してやけにベルをジャラジャラと廻す。足元で狆(ちん)が驚ろいて急に吠え出す。これは迂濶(うかつ)に出来ないと、急に飛び下りて椽(えん)の下へもぐり込む。