三 - 12
のない西洋料理のようなものだ、――いいか両君能(よ)く聞き給え、これからが結論だぜ。――さて以上の公式にウィルヒョウ、ワイスマン諸家の説を参酌して考えて見ますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に追陪(ついばい)して起る心意的状況は、たとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。従ってかくのごとく身分に不似合なる鼻の持主の生んだ子には、その鼻にも何か異状がある事と察せられます。寒月君などは、まだ年が御若いから金田令嬢の鼻の構造において特別の異状を認められんかも知れませんが、かかる遺伝は潜伏期の長いものでありますから、いつ何時(なんどき)気候の劇変と共に、急に発達して御母堂のそれのごとく、咄嗟(とっさ)の間(かん)に膨脹(ぼうちょう)するかも知れません、それ故にこの御婚儀は、迷亭の学理的論証によりますと、今の中御断念になった方が安全かと思われます、これには当家の御主人は無論の事、そこに寝ておらるる猫又殿(ねこまたどの)にも御異存は無かろうと存じます」主人はようよう起き返って「そりゃ無論さ。あんなものの娘を誰が貰うものか。寒月君もらっちゃいかんよ」と大変熱心に主張する。吾輩もいささか賛成の意を表するためににゃーにゃーと二声ばかり鳴いて見せる。寒月君は別段騒いだ様子もなく「先生方の御意向がそうなら、私は断念してもいいんですが、もし当人がそれを気にして病気にでもなったら罪ですから――」「ハハハハハ艶罪(えんざい)と云う訳(わけ)だ」主人だけは大(おおい)にむきになって「そんな馬鹿があるものか、あいつの娘なら碌(ろく)な者でないに極(きま)ってらあ。初めて人のうちへ来ておれをやり込めに掛った奴だ。傲慢(ごうまん)な奴だ」と独(ひと)りでぷんぷんする。するとまた垣根のそばで三四人が「ワハハハハハ」と云う声がする。一人が「高慢ちきな唐変木(とうへんぼく)だ」と云うと一人が「もっと大きな家(うち)へ這入(はい)りてえだろう」と云う。また一人が「御気の毒だが、いくら威張ったって蔭弁慶(かげべんけい)だ」と大きな声をする。主人は椽側(えんがわ)へ出て負けないような声で「やかましい、何だわざわざそんな塀(へい)の下へ来て」と怒鳴(どな)る。「ワハハハハハサヴェジ·チーだ、サヴェジ·チーだ」と口々に罵(のの)しる。主人は大(おおい)に逆鱗(げきりん)の体(てい)で突然起(た)ってステッキを持って、往来へ飛び出す。迷亭は手を拍(う)って「面白い、やれやれ」と云う。寒月は羽織の紐を撚(ひね)ってにやにやする。吾輩は主人のあとを付けて垣の崩れから往来へ出て見たら、真中に主人が手持無沙汰にステッキを突いて立っている。人通りは一人もない、ちょっと狐(きつね)に抓(つま)まれた体(てい)である。