四 - 1
があっても猫の議論は通らない。無理に通そうとすると車屋の黒のごとく不意に肴屋(さかなや)の天秤棒(てんびんぼう)を喰(くら)う恐れがある。理はこっちにあるが権力は向うにあると云う場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、または権力の目を掠(かす)めて我理を貫くかと云えば、吾輩は無論後者を択(えら)ぶのである。天秤棒は避けざるべからざるが故に、忍ばざるべからず。人の邸内へは這入り込んで差支(さしつか)えなき故込まざるを得ず。この故に吾輩は金田邸へ忍び込むのである。
忍び込む度(ど)が重なるにつけ、探偵をする気はないが自然金田君一家の事情が見たくもない吾輩の眼に映じて覚えたくもない吾輩の脳裏(のうり)に印象を留(とど)むるに至るのはやむを得ない。鼻子夫人が顔を洗うたんびに念を入れて鼻だけ拭く事や、富子令嬢が阿倍川餅(あべかわもち)を無暗(むやみ)に召し上がらるる事や、それから金田君自身が――金田君は妻君に似合わず鼻の低い男である。単に鼻のみではない、顔全体が低い。小供の時分喧嘩をして、餓鬼大将(がきだいしょう)のために頸筋(くびすじ)を捉(つら)まえられて、うんと精一杯に土塀(どべい)へ圧(お)し付けられた時の顔が四十年後の今日(こんにち)まで、因果(いんが)をなしておりはせぬかと怪(あやし)まるるくらい平坦な顔である。至極(しごく)穏かで危険のない顔には相違ないが、何となく変化に乏しい。いくら怒(おこ)っても平(たいら)かな顔である。――その金田君が鮪(まぐろ)の刺身(さしみ)を食って自分で自分の禿頭(はげあたま)をぴちゃぴちゃ叩(たた)く事や、それから顔が低いばかりでなく背が低いので、無暗に高い帽子と高い下駄を穿(は)く事や、それを車夫がおかしがって書生に話す事や、書生がなるほど君の観察は機敏だと感心する事や、――一々数え切れない。