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五 - 3
文するのは、全然似寄らぬマドンナを双幅(そうふく)見せろと逼(せま)ると同じく、ラファエルにとっては迷惑であろう、否同じ物を二枚かく方がかえって困難かも知れぬ。弘法大師に向って昨日(きのう)書いた通りの筆法で空海と願いますと云う方がまるで書体を換(か)えてと注文されるよりも苦しいかも分らん。人間の用うる国語は全然模傚主義(もこうしゅぎ)で伝習するものである。彼等人間が母から、乳母(うば)から、他人から実用上の言語を習う時には、ただ聞いた通りを繰り返すよりほかに毛頭の野心はないのである。出来るだけの能力で人真似をするのである。かように人真似から成立する国語が十年二十年と立つうち、発音に自然と変化を生じてくるのは、彼等に完全なる模傚(もこう)の能力がないと云う事を証明している。純粋の模傚(もこう)はかくのごとく至難なものである。従って神が彼等人間を区別の出来ぬよう、悉皆(しっかい)焼印の御かめのごとく作り得たならばますます神の全能を表明し得るもので、同時に今日(こんにち)のごとく勝手次第な顔を天日(てんぴ)に曝(さ)らさして、目まぐるしきまでに変化を生ぜしめたのはかえってその無能力を推知し得るの具ともなり得るのである。

    吾輩は何の必要があってこんな議論をしたか忘れてしまった。本(もと)を忘却するのは人間にさえありがちの事であるから猫には当然の事さと大目に見て貰いたい。とにかく吾輩は寝室の障子をあけて敷居の上にぬっと現われた泥棒陰士を瞥見(べっけん)した時、以上の感想が自然と胸中に湧(わ)き出でたのである。なぜ湧いた?――なぜと云う質問が出れば、今一応考え直して見なければならん。――ええと、その訳はこうである。
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