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七 - 3
る。開校式をやるとすれば、市の淑女を招待しなければならん。ところが当時の貴婦人方の考によると人間は服装の動物である。皮を着た猿の子分ではないと思っていた。人間として着物をつけないのは象の鼻なきがごとく、学校の生徒なきがごとく、兵隊の勇気なきがごとく全くその本体を失(しっ)している。いやしくも本体を失している以上は人間としては通用しない、獣類である。仮令(たとい)模写模型にせよ獣類の人間と伍するのは貴女の品位を害する訳である。でありますから妾等(しょうら)は出席御断わり申すと云われた。そこで職員共は話せない連中だとは思ったが、何しろ女は東西両国を通じて一種の装飾品である。米舂(こめつき)にもなれん志願兵にもなれないが、開校式には欠くべからざる化装道具(けしょうどうぐ)である。と云うところから仕方がない、呉服屋へ行って黒布(くろぬの)を三十五反八分七(はちぶんのしち)買って来て例の獣類の人間にことごとく着物をきせた。失礼があってはならんと念に念を入れて顔まで着物をきせた。かようにしてようやくの事滞(とどこお)りなく式をすましたと云う話がある。そのくらい衣服は人間にとって大切なものである。近頃は裸体画裸体画と云ってしきりに裸体を主張する先生もあるがあれはあやまっている。生れてから今日(こんにち)に至るまで一日も裸体になった事がない吾輩から見ると、どうしても間違っている。裸体は希臘(ギリシャ)、羅馬(ローマ)の遺風が文芸復興時代の淫靡(いんび)の風(ふう)に誘われてから流行(はや)りだしたもので、希臘人や、羅馬人は平常(ふだん)から裸体を見做(みな)れていたのだから、これをもって風教上の利害の関係があるなどとは毫(ごう)も思い及ばなかったのだろうが北欧は寒い所だ。日本でさえ裸で道中がなるものかと云うくらいだから独逸(ドイツ)や英吉利(イギリス)で裸になっておれば死んでしまう。死んでしまってはつまらないから着物をきる。みんなが着物をきれば人間は服装の動物になる。一たび服装の動物となった後(のち)に、突然裸体動物に出逢えば人間とは認めない、獣(けだもの)と思う。それだから欧洲人ことに北方の欧洲人は裸体画、裸体像をもって獣として取り扱っていいのである。猫に劣る獣と認定していいのである。美しい?美しくても構わんから、美しい獣と見做(みな)せばいいのである。こう云うと西洋婦人の礼服を見たかと云うものもあるかも知れないが、猫の事だから西洋婦人の礼服を拝見した事はない。聞くところによると彼等は胸をあらわし、肩をあらわし、腕をあらわしてこれを礼服と称しているそうだ。怪(け)しからん事だ。十四世紀頃までは彼等の出(い)で立(た)ちはしかく滑稽ではなかった、やはり普通の人間の着るものを着ておった。それがなぜこんな下等な軽術師(かるわざし)流に転化してきたかは面倒だから述べない。知る人ぞ知る、知らぬものは知らん顔をしておればよろしかろう。歴史はとにかく彼等はかかる異様な風態をして夜間だけは得々(とくとく)たるにも係わらず内心は少々人間らしいところもあると見えて、日が出ると、肩をすぼめる、胸をかくす、腕を包む、どこもかしこもことごとく見えなくしてしまうのみならず、足の爪一本でも人に見せるのを非常に恥辱と考えている。これで考えても彼等の礼服なるものは一種の頓珍漢的(とんちんかんてき)作用(さよう)によって、馬鹿と馬鹿の相談から成立したものだと云う事が分る。それが口惜(くや)しければ日中(にっちゅう)でも肩と胸と腕を出していて見るがいい。裸体信者だってその通りだ。それほど裸体がいい
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