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でしょう」と土俵際で持ち直す。「寒月が何かその御令嬢に恋着(れんちゃく)したというような事でもありますか」あるなら云って見ろと云う権幕(けんまく)で主人は反(そ)り返る。「まあ、そんな見当(けんとう)でしょうね」今度は主人の鉄砲が少しも功を奏しない。今まで面白気(おもしろげ)に行司(ぎょうじ)気取りで見物していた迷亭も鼻子の一言(いちごん)に好奇心を挑撥(ちょうはつ)されたものと見えて、煙管(きせる)を置いて前へ乗り出す。「寒月が御嬢さんに付(つ)け文(ぶみ)でもしたんですか、こりゃ愉快だ、新年になって逸話がまた一つ殖(ふ)えて話しの好材料になる」と一人で喜んでいる。「付け文じゃないんです、もっと烈しいんでさあ、御二人とも御承知じゃありませんか」と鼻子は乙(おつ)にからまって来る。「君知ってるか」と主人は狐付きのような顔をして迷亭に聞く。迷亭も馬鹿気(ばかげ)た調子で「僕は知らん、知っていりゃ君だ」とつまらんところで謙遜(けんそん)する。「いえ御両人共(おふたりとも)御存じの事ですよ」と鼻子だけ大得意である。「へえー」と御両人は一度に感じ入る。「御忘れになったら私(わた)しから御話をしましょう。去年の暮向島の阿部さんの御屋敷で演奏会があって寒月さんも出掛けたじゃありませんか、その晩帰りに吾妻橋(あずまばし)で何かあったでしょう――詳しい事は言いますまい、当人の御迷惑になるかも知れませんから――あれだけの証拠がありゃ充分だと思いますが、どんなものでしょう」と金剛石(ダイヤ)入りの指環の嵌(はま)った指を、膝の上へ併(なら)べて、つんと居ずまいを直す。偉大なる鼻がますます異彩を放って、迷亭も主人も有れども無きがごとき有様である。