三 - 8
修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠(ねむ)たくていかなんだが、近頃に至って始めて随処任意の庶境(しょきょう)に入(い)ってはなはだ嬉しいと自慢するんです。六十七になって寝られなくなるなあ当り前でさあ。修業も糸瓜(へちま)も入(い)ったものじゃないのに当人は全く克己(こっき)の力で成功したと思ってるんですからね。それで外出する時には、きっと鉄扇(てっせん)をもって出るんですがね」「なににするんだい」「何にするんだか分らない、ただ持って出るんだね。まあステッキの代りくらいに考えてるかも知れんよ。ところがせんだって妙な事がありましてね」と今度は細君の方へ話しかける。「へえー」と細君が差(さ)し合(あい)のない返事をする。「此年(ことし)の春突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと云うんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人自身が着ると云う返事が来ました。二十三日に静岡で祝捷会(しゅくしょうかい)があるからそれまでに間(ま)に合うように、至急調達しろと云う命令なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子は好い加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって大丸(だいまる)へ注文してくれ……」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋(しろきや)と間違えたんだあね」「寸法を見計ってくれたって無理じゃないか」「そこが伯父の伯父たるところさ」「どうした?」「仕方がないから見計らって送ってやった」「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい」「まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。国の新聞を見たら、当日牧山翁は珍らしくフロックコートにて、例の鉄扇(てっせん)を持ち……」「鉄扇だけは離さなかったと見えるね」「うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ」「それでも帽子も洋服も、うまい具合に着られて善かった」「ところが大間違さ。僕も無事に行ってありがたいと思ってると、しばらくして国から小包が届いたから、何か礼でもくれた事と思って開けて見たら例の山高帽子さ、手紙が添えてあってね、せっかく御求め被下候(くだされそうら)えども少々大きく候間(そろあいだ)、帽子屋へ御遣(おつか)わしの上、御縮め被下度候(くだされたくそろ)。縮め賃は小為替(こがわせ)にて此方(こなた)より御送(おんおくり)可申上候(もうしあぐべきそろ)とあるのさ」「なるほど迂濶(うかつ)だな」と主人は己(おの)れより迂濶なものの天下にある事を発見して大(おおい)に満足の体(てい)に見える。やがて「それから、どうした」と聞く。「どうするったって仕方がないから僕が頂戴して被(かぶ)っていらあ」「あの帽子かあ」と主人がにやにや笑う。「その方(かた)が男爵でいらっしゃるんですか」と細君が不思議そうに尋ねる。「誰がです」「その鉄扇の伯父さまが」「なあに漢学者でさあ、若い時聖堂(せいどう)で朱子学(しゅしがく)か、何かにこり固まったものだから、電気灯の下で恭(うやうや)しくちょん髷(まげ)を頂いているんです。仕方がありません」とやたらに顋(あご)を撫(な)で廻す。「それでも君は、さっきの女に牧山男爵と云ったようだぜ」「そうおっしゃいましたよ、私も茶の間で聞いておりました」と細君もこれだけは主人の意見に同意する。「そうでしたかなアハハハハハ」と迷亭は訳(わけ)もなく笑う。「そりゃ嘘(うそ)ですよ。僕に男爵の伯父がありゃ、今頃は局長くらいになっていまさあ」と平気なものである。「何だか変だと思った」と主人は嬉しそうな、心配そうな顔付をする。「