四 - 6
「鼻の中の白髪は見えんから害はないが、脳天が――ことに若い女の脳天がそんなに禿げちゃ見苦しい。不具(かたわ)だ」
「不具(かたわ)なら、なぜ御貰いになったのです。御自分が好きで貰っておいて不具だなんて……」
「知らなかったからさ。全く今日(きょう)まで知らなかったんだ。そんなに威張るなら、なぜ嫁に来る時頭を見せなかったんだ」
「馬鹿な事を!どこの国に頭の試験をして及第したら嫁にくるなんて、ものが在るもんですか」
「禿はまあ我慢もするが、御前は背(せ)いが人並外(はず)れて低い。はなはだ見苦しくていかん」
「背いは見ればすぐ分るじゃありませんか、背(せい)の低いのは最初から承知で御貰いになったんじゃありませんか」
「それは承知さ、承知には相違ないがまだ延びるかと思ったから貰ったのさ」
「廿(はたち)にもなって背(せ)いが延びるなんて――あなたもよっぽど人を馬鹿になさるのね」と細君は袖(そで)なしを抛(ほう)り出して主人の方に捩(ね)じ向く。返答次第ではその分にはすまさんと云う権幕(けんまく)である。
「廿(はたち)になったって背いが延びてならんと云う法はあるまい。嫁に来てから滋養分でも食わしたら、少しは延びる見込みがあると思ったんだ」と真面目な顔をして妙な理窟(りくつ)を述べていると門口(かどぐち)のベルが勢(いきおい)よく鳴り立てて頼むと云う大きな声がする。いよいよ鈴木君がペンペン草を目的(めあて)に苦沙弥(くしゃみ)先生の臥竜窟(がりょうくつ)を尋ねあてたと見える。
細君は喧嘩を後日に譲って、倉皇(そうこう)針箱と袖なしを抱(かか)えて茶の間へ逃げ込む。主人は鼠色の毛布(けっと)を丸めて書斎へ投げ込む。やがて下女が持って来た名刺を見て、主人はちょっと驚ろいたような顔付であったが、こちらへ御通し申してと言い棄てて、名刺を握ったまま後架(こうか)へ這入(はい)った。何のために後架へ急に這入ったか一向要領を得ん、何のために鈴木藤十郎(すずきとうじゅうろう)君の名刺を後架まで持って行ったのかなおさら説明に苦しむ。とにかく迷惑なのは臭い所へ随行を命ぜられた名刺君である。
下女が更紗(さらさ)の座布団を床(とこ)の前へ直して、どうぞこれへと引き下がった、跡(あと)で、鈴木君は一応室内を見廻わす。床に掛けた花開(はなひらく)万国春(ばんこくのはる)とある木菴(もくあん)の贋物(にせもの)や、京製の安青磁(やすせいじ)に活(い)けた彼岸桜(ひがんざくら)などを一々順番に点検したあとで、ふと下女の勧めた布団の上を見るといつの間(ま)にか一疋(ぴき)の猫がすまして坐っている。申すまでもなくそれはかく申す吾輩である。この時鈴木君の胸のうちにちょっとの間顔色にも出ぬほどの風波が起った。この布団は疑いもなく鈴木君のために敷かれたものである。自分のために敷かれた布団の上に自分が乗らぬ先から、断りもなく妙な動物が平然と蹲踞(そんきょ)している。これが鈴木君の心の平均を破る第一の条件である。もしこの布団が勧められたまま、主(ぬし)なくして春風の吹くに任せてあったなら、鈴木君はわざと謙遜(けんそん)の意を表(ひょう)して、主人がさあどうぞと云うまでは堅い畳の上で我慢していたかも知れない。しかし早晩自分の所有すべき布団の上に挨拶もなく乗ったものは誰であろう。人間なら譲る事もあろうが猫とは怪(け)しからん。乗り手が猫であると云うのが一段