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吾輩は叙述の順序として、不時の珍客なる泥棒陰士その人をこの際諸君に御紹介するの栄誉を有する訳(わけ)であるが、その前ちょっと卑見を開陳(かいちん)してご高慮を煩(わずら)わしたい事がある。古代の神は全智全能と崇(あが)められている。ことに耶蘇教(ヤソきょう)の神は二十世紀の今日(こんにち)までもこの全智全能の面(めん)を被(かぶ)っている。しかし俗人の考うる全智全能は、時によると無智無能とも解釈が出来る。こう云うのは明かにパラドックスである。しかるにこのパラドックスを道破(どうは)した者は天地開闢(てんちかいびゃく)以来吾輩のみであろうと考えると、自分ながら満更(まんざら)な猫でもないと云う虚栄心も出るから、是非共ここにその理由を申し上げて、猫も馬鹿に出来ないと云う事を、高慢なる人間諸君の脳裏(のうり)に叩き込みたいと考える。天地万有は神が作ったそうな、して見れば人間も神の御製作であろう。現に聖書とか云うものにはその通りと明記してあるそうだ。さてこの人間について、人間自身が数千年来の観察を積んで、大(おおい)に玄妙不思議がると同時に、ますます神の全智全能を承認するように傾いた事実がある。それは外(ほか)でもない、人間もかようにうじゃうじゃいるが同じ顔をしている者は世界中に一人もいない。顔の道具は無論極(きま)っている、大(おおき)さも大概は似たり寄ったりである。換言すれば彼等は皆同じ材料から作り上げられている、同じ材料で出来ているにも関らず一人も同じ結果に出来上っておらん。よくまああれだけの簡単な材料でかくまで異様な顔を思いついた者だと思うと、製造家の伎倆(ぎりょう)に感服せざるを得ない。よほど独創的な想像力がないとこんな変化は出来んのである。一代の画工が精力を消耗(しょうこう)して変化を求めた顔でも十二三種以外に出る事が出来んのをもって推(お)せば、人間の製造を一手(いって)で受負(うけお)った神の手際(てぎわ)は格別な者だと驚嘆せざるを得ない。到底人間社会において目撃し得ざる底(てい)の伎倆であるから、これを全能的伎倆と云っても差(さ)し支(つか)えないだろう。人間はこの点において大(おおい)に神に恐れ入っているようである、なるほど人間の観察点から云えばもっともな恐れ入り方である。しかし猫の立場から云うと同一の事実がかえって神の無能力を証明しているとも解釈が出来る。もし全然無能でなくとも人間以上の能力は決してない者であると断定が出来るだろうと思う。神が人間の数だけそれだけ多くの顔を製造したと云うが、当初から胸中に成算があってかほどの変化を示したものか、または猫も杓子(しゃくし)も同じ顔に造ろうと思ってやりかけて見たが、とうてい旨(うま)く行かなくて出来るのも出来るのも作り損(そこ)ねてこの乱雑な状態に陥(おちい)ったものか、分らんではないか。彼等顔面の構造は神の成功の紀念と見らるると同時に失敗の痕迹(こんせき)とも判ぜらるるではないか。全能とも云えようが、無能と評したって差し支えはない。彼等人間の眼は平面の上に二つ並んでいるので左右を一時(いちじ)に見る事が出来んから事物の半面だけしか視線内に這入(はい)らんのは気の毒な次第である。立場を換(か)えて見ればこのくらい単純な事実は彼等の社会に日夜間断なく起りつつあるのだが、本人逆(のぼ)せ上がって、神に呑(の)まれているから悟りようがない。製作の上に変化をあらわすのが困難であるならば、その上に徹頭徹尾の模傚(もこう)を示すのも同様に困難である。ラファエルに寸分違わぬ聖母の像を二枚かけと注